チラシの裏の音楽室

東京に生息する29歳。音楽、地理、現代史のオタクです。

交響曲第94番「驚愕」(ハイドン作曲、1791年)

ハイドン(Franz Joseph Haydn)が欧州でその名を轟かせたのは18世紀後半。
同時代には、同じオーストリア人のモーツァルトがいる。

西洋音楽史的には、バロック音楽は18世紀前半で終わり、18世紀後半は古典派の時代。
バロック音楽は教会のミサだとか王侯貴族の祝典のための音楽として発展していったが、19世紀のロマン派になると、公開のコンサートに音楽そのものを聴きにやって来る音楽ファンの市民のために曲が作られるようになる。
古典派はその過渡期で、まだバロック音楽のような予定調和的な部分も色濃く残している。ハイドンも60歳手前までずっと、エステルハージ家という大貴族の宮廷楽長が本職だった。そういう人の曲だから、ベートーヴェン以降の曲みたいに、テンポを大きく揺らして、突如として眉間にしわを寄せたり拳を振り上げたりしながら、挑発的でダイナミックな感情表現をする演奏は似合わない。聴衆の意表を突く表現はあっても、口元には品良く微笑を浮かべながらそれをやらなくちゃいけない。

例えば、交響曲第94番の第2楽章の冒頭。「ド、ド、ミ、ミ、ソ、ソ、ミー」の主題をピアニッシモで反復した直後、ティンパニを含む全奏者が「ジャーン」を鳴らす。
この曲を初演したロンドンの市民を驚かすためのご愛嬌だが、それだけでこの交響曲には「驚愕」という愛称がついてしまった。


J. Haydn - Hob I:94 - Symphony No. 94 in G major "Surprise" (Brüggen)
0:00~第1楽章、8:48~第2楽章、15:30~第3楽章、19:18~第4楽章

1790年、ハイドンが58歳の時、音楽好きのニコラウス・エステルハージ侯爵が亡くなり、跡を継いだアントン・エステルハージはほとんど音楽家を解雇してしまった。
年金暮らしになったハイドンに儲け話を持ち掛けたのが、バイオリニストであり音楽興行師のザロモン。彼はハイドンを1791~92年、1794~95年の2度ロンドンに招いて、大規模なオーケストラで新曲を次々と発表するコンサートを計画した。
今もよく演奏されるハイドンの最重要作品群は、この時期のものだ。交響曲でいえば、94番(驚愕)、96番(奇跡)、100番(軍隊)、101番(時計)、102番、103番(太鼓連打)、104番(ロンドン)など。

18世紀末の英国は、産業革命がどの国よりも早く始まっていたところである。ワット式蒸気機関の実用化が1776年、力織機の発明が1785年。
商工業の発展で首都ロンドンの人口は増え、経営資本を持つブルジョワ層の市民がどんどん富を増やし始めていた。世界のどこよりも、公開コンサートの興行が産業として成り立ちやすい街になっていたのである。
当時のロンドンの新聞も、コンサートの予告や評判を記事として書き立て、ハイドンの興行は大成功。2度のロンドン出稼ぎで得た収入は、それまで30年間仕えた宮廷楽長としての収入を上回った。
ハイドンは、市民向けの演奏会で莫大な富と名声を手にした最初のスター作曲家なのだ。

<余談>

ハイドンがロンドン滞在中に「驚愕」の譜面を完成させた1791年の暮れ、彼の自宅があったウィーンでこの世を去った人物がいる。
同時代のもう一人の大作曲家、モーツァルトだ。35歳の若さだった。
ハイドンにとっては息子のような年齢。30代、40代、50代と円熟味を増すにしたがって徐々に名声を得たハイドンに対して、物心ついた時から神童と呼ばれ、10代から後世に残る作品を残し続けたモーツァルト。大らかな常識人で経済感覚にも優れたハイドンに対して、ほとんど躁鬱病のような人生を送り、浪費癖のために無一文に近い状態で病死したモーツァルト
まさに真反対の2人だが、互いを同時代で最も優れた作曲家と認め合っていたことは有名だし、曲を送りあったり、互いの邸宅で一緒に演奏することもあった。
ロンドンでモーツァルトの訃報を聞いたハイドンは、ウィーンの友人に次のような手紙を送っている。

私は途方もなく家に帰りたい。そして私の友人たち皆を抱擁したい。ただ一つ残念なことは、その友人たちの中に、あの偉大なモーツァルトがもはやいないということです。彼が死んだなどと、とても信じられません。後世の人々は、彼ほどの才能の持ち主を、百年のあいだ、再び見ることはできないでしょう。

しかし翌年、ロンドンで成功を手にしたハイドンは、ウィーンへ帰る途中、ドイツで若く才能に溢れた一人の即興ピアニストと出会い、彼を弟子としてウィーンに連れて行く。
彼の名はベートーヴェン。後に作曲家として大成し、世界史においてモーツァルトと並び称される未来を、ハイドンは果たして見抜いていただろうか?