チラシの裏の音楽室

東京に生息する29歳。音楽、地理、現代史のオタクです。

フライングゲット(AKB48、2011年)

AKB48の全盛期を象徴する1曲。レコード大賞受賞曲。
直近のメンバー選抜総選挙大島優子らを破って、1位に返り咲いた前田敦子がセンターポジションを務めた。


【MV full】 フライングゲット (ダンシングバージョン) / AKB48 [公式]

冒頭からティンバレスラテン音楽で使う打楽器)を聴かせて、ロックの8ビートの上に高速のサンバのリズムを巧妙に乗せたダンスナンバー。
そして歌いだしが、「ナナナ~ナナナナナナ~」。
これ完全に、同じラテン調ロックの名曲、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」だ!「フラゲ」のナナナ~と「勝手にシンドバッド」のラララ~は、旋律の印象は大きく異なるとは言え同じリズムで歌われる。

続く歌詞が、「ギラギラ容赦ない太陽が/強火で照りつけるon the beach/自惚れ温度は急上昇/落ち着かないのは真夏の性だね」。
これまた、秋元康がバリバリに桑田佳祐を意識して書いたとしか思えない。

作詞家兼プロデューサー・秋元康の仕事量というのはまことに膨大である。すでにこの当時、AKB48の各支店だとかグループ内チームだとかユニットだとか、プロデュースしているグループの数は訳が分からないほどあったし、彼女たちの連日の劇場公演を成り立たせる必要があるからだ。
彼の仕事場には、様々な作曲家から上がってきた候補曲のデモが1000曲もストックしてあって、他の仕事と並行しながら1日に2曲の歌詞をつけていくのだと言う(2011年「福山雅治オールナイトニッポン魂のラジオ」にゲスト出演時の本人談)。

そんな中で作られた一曲であるこの曲だが、まずニクいのが、曲名にもなった「フライングゲット」というインパクト抜群の言葉をサビに当てはめたこと。英語的なアクセントと旋律が全く合っていないのが、逆に耳に残る効果を生むのだ。
また、その「フライングゲット」という言葉を、普通の使い方ではなく、サザン調の物語文脈(真夏のビーチにいる君…目が合えば逸らす彼女の心が知りたい。彼女の心を一刻も早く手に入れたい!)の中に置いたのも良く出来ている。

サビに登場する「君が僕に恋を恋をしてるのは鉄板」(1番)、「僕が君にゾッコンゾッコンなのは無双」(2番)という歌詞も何か癖になる。
普通の50過ぎのオッサンには恥ずかしくて書けない一節だろうが、秋元康が書くと芸能界を操る巨人の底知れない、なりふり構わぬエネルギーを感じるのである。

<余談>
この曲のPVは、AKB48の名物行事「選抜総選挙」で華々しくセンターを決めた曲にしては、殊更に1位の前田を目立たせる作りにはしていない。
大島優子が総選挙1位を獲った年のセンター曲「ヘビーローテーション」(2010)、「ギンガムチェック」(2012)の「優子推し」っぷりとは好対照だ。

僕には、このことは、前田がセンターに居たからこそAKB48は多数のメンバーが輝くグループになった事実を反映している感じがする。総選挙やじゃんけん大会の対象曲を除いて、AKBのシングル曲ではデビューからこの時期までほとんど、前田がセンターを務めた。特別に大島のためにプレゼントされた「ヘビロテ」と「ギンガム」は、大当たり曲であっても「偉大な例外」だ。
特にAKB48の大ファンでもない一人の男がメディアで持ち得た限りの感想だが、前田は元来、純真で無邪気なひとで、グループの中であえて我先に前に出ようとするタイプではないのだと思う。もし中心に座るメンバーの口数や武器がグループの中で目立って多ければ、どうしてもグループはそのひとをフロントマンとするカラーに染まってしまう。
愛らしくてステージ映えもするが、積極的に目立とうとはしない前田を中心に据えたことが、初期AKB48の成功の鍵だったのかな、と思う。

ANSWER(槇原敬之、1990年)

槇原敬之のデビューアルバムの1曲目。
小さな宝石のような輝きを放つラブ・バラード。


槇原敬之「ANSWER」 歌詞付き

日本のポップスを語る時、槇原敬之を避けて通るわけには絶対にいかない。
一つ一つの文字の母音をミックスボイスで丁寧に響かせる槇原の歌は、日本語の歌の聞かせ方としてある種の理想だからだ。
また、良いか悪いかは別にして、槇原の詞はいつも、きわめて私的な感情と情景を描いている。例外として「世界に一つだけの花」みたいなメッセージソングもあるけど、社会的・政治的な立ち位置を感じさせる詞などは一切ない。このことはJ-POPという世界の全体的な傾向でもある。

"愛という 窮屈を がむしゃらに 抱きしめた"
このたった一節が「ANSWER」では実質的なサビの役割を果たしている。
冒頭の「愛」で曲中の最高音に達し、「がむしゃらに」では、一気に歌いだしの音程まで戻ってくる。それでいて音の濃密な動きが詞の力を殺していないどころか、全く無理なく、はっきりと浮き立たたせている。
この曲は高校生の時代に書いたのだという。たぶんこの歌を作った時から『UNDERWEAR』あたりまでの約10年が彼の創作のピークだったと思う。
槇原ほどに恋愛の情景を、誰にでも伝わるようにメロディに乗せて描けるシンガーソングライターは、その後登場していない。

交響曲第94番「驚愕」(ハイドン作曲、1791年)

ハイドン(Franz Joseph Haydn)が欧州でその名を轟かせたのは18世紀後半。
同時代には、同じオーストリア人のモーツァルトがいる。

西洋音楽史的には、バロック音楽は18世紀前半で終わり、18世紀後半は古典派の時代。
バロック音楽は教会のミサだとか王侯貴族の祝典のための音楽として発展していったが、19世紀のロマン派になると、公開のコンサートに音楽そのものを聴きにやって来る音楽ファンの市民のために曲が作られるようになる。
古典派はその過渡期で、まだバロック音楽のような予定調和的な部分も色濃く残している。ハイドンも60歳手前までずっと、エステルハージ家という大貴族の宮廷楽長が本職だった。そういう人の曲だから、ベートーヴェン以降の曲みたいに、テンポを大きく揺らして、突如として眉間にしわを寄せたり拳を振り上げたりしながら、挑発的でダイナミックな感情表現をする演奏は似合わない。聴衆の意表を突く表現はあっても、口元には品良く微笑を浮かべながらそれをやらなくちゃいけない。

例えば、交響曲第94番の第2楽章の冒頭。「ド、ド、ミ、ミ、ソ、ソ、ミー」の主題をピアニッシモで反復した直後、ティンパニを含む全奏者が「ジャーン」を鳴らす。
この曲を初演したロンドンの市民を驚かすためのご愛嬌だが、それだけでこの交響曲には「驚愕」という愛称がついてしまった。


J. Haydn - Hob I:94 - Symphony No. 94 in G major "Surprise" (Brüggen)
0:00~第1楽章、8:48~第2楽章、15:30~第3楽章、19:18~第4楽章

1790年、ハイドンが58歳の時、音楽好きのニコラウス・エステルハージ侯爵が亡くなり、跡を継いだアントン・エステルハージはほとんど音楽家を解雇してしまった。
年金暮らしになったハイドンに儲け話を持ち掛けたのが、バイオリニストであり音楽興行師のザロモン。彼はハイドンを1791~92年、1794~95年の2度ロンドンに招いて、大規模なオーケストラで新曲を次々と発表するコンサートを計画した。
今もよく演奏されるハイドンの最重要作品群は、この時期のものだ。交響曲でいえば、94番(驚愕)、96番(奇跡)、100番(軍隊)、101番(時計)、102番、103番(太鼓連打)、104番(ロンドン)など。

18世紀末の英国は、産業革命がどの国よりも早く始まっていたところである。ワット式蒸気機関の実用化が1776年、力織機の発明が1785年。
商工業の発展で首都ロンドンの人口は増え、経営資本を持つブルジョワ層の市民がどんどん富を増やし始めていた。世界のどこよりも、公開コンサートの興行が産業として成り立ちやすい街になっていたのである。
当時のロンドンの新聞も、コンサートの予告や評判を記事として書き立て、ハイドンの興行は大成功。2度のロンドン出稼ぎで得た収入は、それまで30年間仕えた宮廷楽長としての収入を上回った。
ハイドンは、市民向けの演奏会で莫大な富と名声を手にした最初のスター作曲家なのだ。

<余談>

ハイドンがロンドン滞在中に「驚愕」の譜面を完成させた1791年の暮れ、彼の自宅があったウィーンでこの世を去った人物がいる。
同時代のもう一人の大作曲家、モーツァルトだ。35歳の若さだった。
ハイドンにとっては息子のような年齢。30代、40代、50代と円熟味を増すにしたがって徐々に名声を得たハイドンに対して、物心ついた時から神童と呼ばれ、10代から後世に残る作品を残し続けたモーツァルト。大らかな常識人で経済感覚にも優れたハイドンに対して、ほとんど躁鬱病のような人生を送り、浪費癖のために無一文に近い状態で病死したモーツァルト
まさに真反対の2人だが、互いを同時代で最も優れた作曲家と認め合っていたことは有名だし、曲を送りあったり、互いの邸宅で一緒に演奏することもあった。
ロンドンでモーツァルトの訃報を聞いたハイドンは、ウィーンの友人に次のような手紙を送っている。

私は途方もなく家に帰りたい。そして私の友人たち皆を抱擁したい。ただ一つ残念なことは、その友人たちの中に、あの偉大なモーツァルトがもはやいないということです。彼が死んだなどと、とても信じられません。後世の人々は、彼ほどの才能の持ち主を、百年のあいだ、再び見ることはできないでしょう。

しかし翌年、ロンドンで成功を手にしたハイドンは、ウィーンへ帰る途中、ドイツで若く才能に溢れた一人の即興ピアニストと出会い、彼を弟子としてウィーンに連れて行く。
彼の名はベートーヴェン。後に作曲家として大成し、世界史においてモーツァルトと並び称される未来を、ハイドンは果たして見抜いていただろうか?